日本からイギリスに戻ってしばらくは、この記事をブログに書こうか書かないか迷っていました。 長く悲しい話だからです。でも、私が日本で見て聞いて感じた事をシェアする事で、前回の募金活動に協力していただいた方々に海外のニュースでは見れない事実を知ってもらいたかったし、今後も支援の気持ちが少しでも多くの方に広まったらいいと思いました。読んで感じた事などは自由にシェアして頂けると幸いです。(慣れない長文なので、読みにくかったらごめんなさい。写真はクリックすると拡大表示できます。)
父親の手伝っている田んぼも収穫間際。
金色に輝く稲穂があちこちで見られるはずのこの時期も、
今年は津波の影響でそんな様子が見れない地域もあり、
また収穫をなんとか迎える事が出来ても、
放射線量を調べなくては出産できないという見えない壁がある。
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久しぶりの日本はやっぱり暑かった。大学を始めて以来、仕事をフルタイムからパートタイムに切り替えた為、資金的にもこの3年間は帰国を控えていた私。でも、震災以来やっぱり気がかりだったので、3年ぶりに家族に会いに一週間だけ帰郷した。帰国のもう一つの理由は被災地に足を運ぶ事。自分がこれからどんな風に支援活動していくか考える際、自分の目で見て来たかった。震災からちょうど半年の9月11日、私は旧友を訪ねて仙台に向かった。
仙台市では青いビニールシートが屋根に貼られた家が多く見られた。
震災以来、壊れた瓦の復旧作業が、6ヶ月経った今も進んでいない。
異常な程の状況に瓦屋も作業が追いつかないそうだ。
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宮城県は今回の震災で最も多く犠牲者を出した地域。友人Nは比較的内陸に住んでいるので津波の被害はなかったが、連絡が取れないでいたので心配だった。旧友達を通じて、数日経ってから、給水所に6時間程並んでいたNと携帯に連絡が取れた事を確認。家には亀裂や穴があき、窓ガラスが割れ、屋根が落ち、大きな余震が何度も続いた中、ガスがやっと繋がったのが5月に入ってから。それでも「不便はなにもないよー」とN。地震の際、仙台駅も市内の道路もぐちゃぐちゃになった映像をイギリスで見たが、すっかりきれいになっていた。こういう点では素早い再建が見られ、日本はすごいとやっぱり思ってしまう。しかし、市内を走っている最中、青いビニールシートがあちこちで目についた。瓦や窓ガラスが地震で落ちてしまって、修理を待っている家が、限りなくあった。6ヶ月経った今も、瓦屋さんが追いついていないそうだ。東北の冬は早い。もうすぐ雪が降る。それまでには直ってほしいと願うが、昨日のニュースで見たとある瓦屋さんは普段の10年分もの予約が殺到しているという。それを機に、地域外からビジネスチャンスとして出てくる瓦屋さんもいる中、ぼったくりする業者も多くあるそうだ。どうして人の弱みに付け込んで悪知恵が働く人がいつもいるんだろう。悲しく腹立たしくなる気持ちを覚えながら、高速に乗った。
南三陸町。海側を見た景色。海に崩壊した鉄筋の建物らしきものが見える。
自衛隊によりがれきが撤去された地は、津波が残して行った砂に雑草が生える。
満潮時には水が今も入ってくるというこの辺り。津波で流された船や車の残骸も。
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2時間程北へ進み、町のほぼ全域が津波にのまれた、南三陸町へ向かう。海が見える町の中心部に辿り着く前の山間付近で、奇妙な事に気がついた。青々と茂る山の緑の木々が手前の方だけ茶色に変わっていた。よく見回すと、破壊した車らしき残骸や、倒れた電柱、ガラスが割れ中が空洞の無人の家、崩壊した線路が見えた。木々が茶色に変わったのは海水のせいか。こんな所まで津波が来ていたのかと唖然とした。そのまま国道45号線を進み、すこし高くなった山間部を抜け、下り坂に入ったとたん、想像を遥かに超える風景を目前にした。海と陸の境がよく見えなかったが、海岸らしいあたりから山の麓まで辺り一面がすっからかんだんだった。遠目でちらほらとがれきの山らしきものや残ったコンクリのビルが幾つか見えただけで、人影も鳥の声もない。ここは本当に町の中心部なのか。過去に何度か通過したことのあるNは、見覚えもないかのように、もう少し先じゃないかと更に道を進む。しばらくしたら、道は高台に登り、ベイサイドアリーナに着いた。「ここは避難所だった」とN。現在は避難した人達は仮設住宅等に移り、ここで今朝から慰霊祭が行われていた。慰霊祭は終わっていたが、まだ喪服を着た人達がちらほらと見えた。気がついたらとっくに3時を過ぎていた。サイレンを聞いたら黙祷しようと思ってたけど、ばかだな、私、電気も何もない町中で、サイレンなど聞こえる訳がない。そう思った時、さっき通った所はやっぱり町の中心部だったんだと気づかされた。「ほんとうになんにもない」そう思った。アリーナの入り口には現在も行方不明者のリストがずらりと貼られてあり、その隣には遺体発見のリストがあった。新しいもので昨日付まであり、見るとほとんどが沖で見つかっており、年齢も性別も予測できない状態で記されていた。残された遺族達はどんな思いでこの半年を過ごしたんだろうと考えると胸が苦しくなった。
海から1km以上離れた国道沿いにあるガソリンスタンド。
崩壊した鉄筋の骨組みが大きく傾き、勢いよく津波に一方向から
押し寄せて来たのが分かる。(写真の左側が海方面)
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どこからか流されて来た炊飯器の一部が今も町の地面に埋め込まれていた。
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私達は、アリーナを後にし、さっき通った町の中心部へ戻った。橋の近くに幾つもの車の残骸が順序よく並べられていた。車には番号が記されていた。発見した場所あるいは遺体が見つかった模様を意図しているのだろうか。橋の上に立ち、海側の方を見ると、まだ水が引いていない所もあり、残された船の残骸が目に映った。反対の山側には、高さ20、30m位の茶色い木々が一線を引き、それに並ぶようにしてがれきの山が連なっていた。その先にはぽつんと一つだけ残された3階建てのコンクリの建物があり、その上に一台の車が、車体の前方が屋上から落ちるか落ちないかという状態で引っかかっていた。カメラを持ってその建物へ向かって歩いた。大きながれきはほとんど片付けられたかのように、あたりは津波が残した砂とその上に根を付けた雑草だけだった。ブルドーザーが通ったと思われる跡の地面に埋まっていた靴や炊飯器などが時折目についた。どこまでが家で、どこまでが道路で、などというのは整備された国道以外は分からなかった。コンクリの建物は社宅かアパートらしく、玄関や台所だったと思われる部分が見え、津波で突抜になった壁の先には山が見えた。 ここら辺は海から1km以上はありそうだ。建物からちょっと先の国道の間にはぐちゃぐちゃになったパチンコ屋さんとガソリンスタンドがあった。一方向に傾くガソリンスタンドの骨組みから、津波が激しく襲った様子が伺える。だんだん写真を撮るのが辛くなって来た。
橋から見た山側の様子。集められたがれきが山のように並び、
その背景には海水を浴びて茶色くなった木々が山の麓まで続く。
右側には津波で全壊したコンクリの建物が見える。
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後で分かったのだが、このコンクリの建物はここに何列にも並んで
立っていた社宅で、この一棟だけが立ち残った。
その屋上には津波で流されて来て引っかかった車が見える。
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コンクリの建物あたりまで戻ってく来ると、その隣に軽トラックが駐車されていて、そのすぐそばでがれきを集めている一人の男性がいた。おじさんは、がれきを見つけては角っこに集め、また見つけては運ぶという作業を同じ区間で繰り返していた。しばらくしておじさんは低いコンクリの枠らしき所に座り、ミネラルウォーターのボトルから垂らした水で鎌を研ぎ始めた。最初は躊躇していた私もそのまま去る事が出来ず、おじさんに声をかけた。「おじさん、大変だったね」日に焼けたおじさんの顔が上を向いた。私の父親ぐらいか少し上くらいの方だろうか。「船も家もみんな無くなっちゃったからねえ」おじさんは鎌を研ぐ手を止めて一呼吸し、ここはおじさんの住んでいた家だったことを教えてくれた。 現在、無事だった家族と一緒に仮設に住むおじさんは、自分の家のあった所にどんどん伸びる雑草を刈りに来ていたのだ。おじさんが座っていたのは、自分の家の土台だった部分。「本当にものすごかったんだよ、グオーって音がしてさ、本当に長い揺れだったし、こりゃすごい津波が来るなって」昔漁をやっていたおじさんは、地震後すぐ奥さんとお孫さん2人を軽トラで避難させ、自分は船で逃げようとして海に向かったという。その後どうやって免れたのかは、おじさんのなまりのある言葉でよく聞き取れなかった。でも、根掘り葉掘り聞き返すのも悪い気がして、そのままうんうんとうなずいては、おじさんの話を聞き続けた。海側に数メートル戻ったあたりを指差して、「そこまでチリ(地震)の時は津波が来たさ」それ以来、町民は毎年避難訓練していたそうである。にもかかわらず、避難せず亡くなった方も多い。おじさんが漁を辞めてから働いていたというすぐそばの山間のラーメン屋さんの姿もない。「そこら辺に住んでたおばちゃんとか、逃げろーって言ってるのに、ここまではこないよ、2階にいれば大丈夫って、お茶飲んでんだもん。みんな亡くなったさ。」コンクリの建物に引っかかった車を指差して、「あの車は津波でずっと流されて来て、そこで止まった」という。中にいた女性は翌日救助されたそうだ。「あんな寒い中よくがんばったよ」とおじさん。何が生と死を分けたんだろう。「あきらめなかったんだね、その人」と私が言うと、おじさんは「初めっからあきらめちゃだめだね。あきらめないで頑張ったから生き延びたんだろうな」と言って、何かを思い出すかのように、目をこすってはあふれそうな涙を押さえていた。おじさんは時々立ち上がって、指を指し、あのあたりの人も逃げないで亡くなったとか、あの辺りは田んぼだったとか、目の前に唯一残る電線を指差して「がれきとか網とか一杯引っかかったの、全部自衛隊さん達がきれいにしてくれた」と話した。真っ黒の津波が来る前は、ものすごい潮の引き方で、海の底が見えたという。その波が残していった砂に覆われたおじさんの敷地。「ここが駐車場だった」と示してくれた所に、コンクリのタイヤ止めが4つ並んでいた。娘さんと2世帯で同居していたらしく、車も4台あったそうだ。「国道前の一等地だったんだよ、ここ。娘も大学行かせて、やっと資格に受かったところでさ。若い人はやっぱりまたやろうって頑張ってるけんども、70近くなって、車も船もうちも全部無くなって、また借金抱えて一からやるのもねえ」おじさんは、今後の見通しの着かない行き先をそう口にして、また鎌を研ぎ始めた。
おじさんの敷地から見た、コンクリの建物とその先に見えるがれきの山。
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おじさんのようにこれからどうして行くか分からない人、家族を亡くしてまだ踏ん切りが着かず、考える事すら出来ないでいる人、再建の為に必死に仕事を探している人、遠くに一度避難したが復興の為に地元にまた戻ってくる人、そして見通しのない地元の復興を後に新地へと進んで行く人。被災者たちはそれぞれの形で半年という節目を過ごした。安全で早期的な復興の為に、新しい漁業団体や町作りの案が出始める中、実の町民との希望が合わず、進めないケースも多くあるそうだ。石巻で生まれ南三陸で長く暮らして来たおじさんは「海のない所に住むなんて考えられない」という。おじさんの話を聞き始めて30分位たっただろうか。何を言ってあげる事も出来ず、ただただうなづきながら聞いていた私は、「知らん者に話なんかしてもらってありがとうね」という事しかできなかった。するとおじさんは、「いや、話すると少しでも気持ちが楽になるから」と言ってくれた。 半年経ったからこそ、こうやって話を出来るようになったのだろうか。被災者達に今必要なのは、少しずつ癒して行く時間と場所なのかもしれない。 立ち上がって、雑草を刈り始めたおじさんを離れ、「何もしてあげれない」無念な気持ちを抱えたまま、Nの車に戻った。後部席に置いていた紫の包みを見て、ふと思い立った。イギリスの庭に咲いた今年のラベンダー。Nにあげようと思って乾かして持って来た。「持ってってあげて」というNにお礼をいい、私はラベンダーを入れた紫の包みを持っておじさんの所へ走っていった。声をかけると、少し気難しそうな様子で顔を上げるおじさんに包みを渡した。「これ、奥さんでもお孫さんにでもあげて。眠れない時とかにゆっくり休めるように。」包みを開け「ああ、いい匂いだ」とおじさん。その場を去る私に「ありがとう」と言ってくれた後、ラベンダーを軽トラに乗せ、また雑草刈りに戻って行った。
志津川病院(上)とそのロビー辺りから入り口を振り返ってみた風景。
崩壊した骨組みの先には、海側に立つがれきの山が見える。
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Nと私はその足で、 また来た道を戻り、がれきがほぼ正面玄関を埋め尽くした4階建てのコンクリビルの前で止まった。志津川病院。津波が4階まで達し、屋上に避難した人達がニュースで流れていたのを思い出した。入り口から中に入ると、沈下した地盤や崩壊した天井がむき出しになっていた。献花台が設けてあり、そこで手を重ね、被災した方々に黙祷した。振り向いた入り口側からは道路の反対側にそびえ立つがれきの山が見えた。がれきは3階建て位の高さか。震災後、自衛隊等が集めたがれきは、こうして行き場がないかのように、町の数カ所で山と化していた。夕方に差しかかり、薄暗くなり始めた南三陸町を私達は後にした。涙を拭いながら津波を振り返るおじさんの焼けた顔を思い出す度、この町にまた明かりが灯る日が一日も早く戻る事を願うばかりである。
病院から見えるがれきの山。その手前に小さく見えるのは公衆トイレか。
その高さを考慮すると、がれきの山の高さが分かる。
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南三陸町を始め、津波の被害を受けた地域は、宮城県だけでなく東北一帯に広がる。半年経っても、復興の兆しが全く見えていない地域も多くある。先日見たドキュメンタリーでは、避難所が閉まった後、仮設の抽選に漏れて、半年経った今も、電気や水のない、地盤沈下して1階の高さまで満潮時は水が入ってくるというほぼ全壊したビルの3階で、まさに危険な生活を続けている女性の様子が流れていた。こうして仮設に入れずに不安な生活をしている人は幾人もいるのだろう。それと比例するかのように、今も大きな被害を受けているのが福島。福島第一原発の事故により、もう半年以上も避難を余儀なくされている人達も、先の全く見えない毎日を過ごしている。津波で被害のあった地域には悔やみの誠意が届く一方で、今も放射能を出している原発のある福島では風評被害がふくれあがっている。私が日本にちょうど帰郷していた時、日本の大臣が福島を「死の町」と言った事で 、好きで避難している訳でもない被災者の気持ちを考慮していないと、マスコミが大きく取り上げていた。その後、謝罪した同大臣は先日福島に視察に入った際、記者に対して「放射能をつける」といったそぶりを見せ、再度マスコミに取り上げられ、大臣の地位を一週間で辞任した。こういうニュースを見ると、私はとても不可解な気持ちになる。南三陸町でみた、人影もなく鳥の声も聞こえない様子を思い出すと、ある意味、「死の町」というのは間違っていないかもしれない。 しかし、国民の前に立って行動するはずの大臣が、被災者の気持ちをえぐるような暴言を公に放つ事は、そもそも無関心に等しい。また、そこへ、重箱の隅をつつくようなマスコミ。日本の政治家もマスコミも、一番先に目を向けて支援していかなくては行けない時に、いったい本当に被災者の事を考えているのかと疑問に思う。そんな事を大きなニュースで取り上げている間に、なぜ今も危険な生活をしている女性に援助の手が出ないのか。腹立たしくてならない。
原発の不評被害は、当事者に取ってはものすごく苦しいものだと思う。群馬の東電で働く友人は、震災以来土日出勤も多く、文句をたたかれる電話を何本も取って来たと言う。被害にあったのは、彼女もある意味一緒であろう。今も原発の中で、被爆を恐れながら寝ずに働いている人達だって、必死なはずだ。帰国後目にした新聞には、天気予報のように、放射線量が、載せられるようになっていた。福島原発から200kmも慣れた、私の両親の住む埼玉県でも比較的高めの放射線量が載った事もあるらしい。原発の近くでは実際にはどのくらい地下や海に露出しているのか今でもはっきり調べる事が出来ず、地域によっては記載された数値より何倍にもなる放射線量が後になって分かったというニュースも時折聞く。国が助けてくれないならと、不安を少しでも食い止めるかのように、個人で調べる器具やそれを洗い流す器具を仕入れる市民や企業も沢山あるようだ。放射能を恐れて、住民の80%が移って行った町もあり、 再建するにもする兆しの見えない福島。福島以外でも、津波や原発事故から逃れる為に、一家で引っ越す人達も後を絶たない。特に、子供のいる家庭は、震災直後に決意した所も多いようだ。自分たちの住んだ町が、一瞬のうちに何かに奪われるかのようにして、戻りたくても戻れない、人や仕事もどんどん消えて行く、そういった状況下で暮らす人達が今どんな気持ちでいるのか。想像するだけで胸が痛む。
日本に滞在中、原発の歴史に関するドキュメンタリーを見た。福島原発は日本が戦後初めてアメリカから取り寄せたもので、当時から関わったアメリカ人のエンジニアや学者とのインタビューを含めて映されていた。70年代に福島に設置された格納容器マーク1は、80年代に入ってから、アメリカのエンジニアの中で、その安全性を大きく問われて注目を浴びていたが、それに対して問題が起きる確率性の低さを尊重した意見に、結局何も改善されなかったと言う。その件は、日本に入って来ても同じく、地震の多い地域には不適切と指摘される中、「大事故の起きる確率は天文的な数値」だからと、重大視されていなかった。安全対策は、想定外の最悪の場合を踏まえての、 バックアップのアックアップと何重にもするべき所なのに、 なぜ、当時の政府や引き継いだ電力会社は、安全対策を軽視したのか。「日本は大丈夫」と思い込む体質は、 戦後の産業発展の著しかった日本に自然に形成されてしまったのか。もし、80年代の問いにきちんと対応していたら、あの時に原発を廃止していたら、安全対策を重視しその改善作業に徹底していたら、今回のような大被害は阻止できたのかもしれない。でも、起きてしまった今の日本は、これから何十年、何世紀も、膨大な放射性廃棄物の処理を見守って行かなければならなくなった。
9歳の姪と4歳の甥。夏休みの課題作成で「グリーンなお菓子」を作ったという姪。
安全で大量のエネルギーを使わないというのが意図だそう。
今年は、省エネや原発への安全対策などの課題を出す小学校が全国でも多かったそう。
この子達の未来を豊かにする為に、私達大人は何をしてあげるのだろう。
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震災から半年経った日本。不安と先の見えない今の日本で、子供達やこれからの世代に、私達大人は何を残してあげれるのだろうか。少しでも多くの子供達にどうやったら希望を残してあげれるのか。こうやって辛い様子ばかりを書く事は、子供達を怖がらせてしまうかもしれない。でも、それに背を向けて、安全な日本を信じ、危機感を育てなかったら、同じ事の繰り返しになってしまう気もする。希望の持てる生活を取り戻すには、一人一人が今何が必要かを考える力を身につけ、そしてあきらめずに少しずつ行動に移して行く事が大事なんだと思う。私達大人一人一人が出来る事。それを真剣に考え取り組む事が、これからの世代に残してあげられる希望の種なんだと思う。今回の帰郷で、私は日本人として、地球人として、これからも日本の復興支援を続けて行こうと思った。個人として、「ものつくり」の一人として、何が出来るだろうと、今模索している。押し付けがましいところがあったら残念だが、この文章を最後まで読んで下さった方には、本当に感謝している。そして、これからも支援して行こうという姿勢が多くの方に広まったらいいなと思う。
実家から見た朝4時くらいの風景。
これからの日本を支援し続ける気持ちで、その日イギリスへ発った。
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私は、震災当初の3月、HELP JAPAN 1000 BIRDS PROJECT という募金活動を、がむしゃらに始めました。小さな鳥を1000羽作り、その売上金を寄付した活動です。活動に協力して下さった世界中の多くの方々から、「今もその鳥を見る度、日本の事は忘れない」と幾つもの便りをもらって、自分の出来る事を少しは出来たのかと思えるようになりました。募金活動は5月で終了させましたが、復興への長い道のりを強いられた人達を思い、再度募金活動を始めようと思います。今度の活動は、長期化させ、また作品内容も少し変化させる予定です。私の今後の活動、HELP JAPAN PROJECT 2 に興味のある方、広めてもいいと思う方は、ぜひメールを下さい。開始の準備が出来次第、ご連絡させていただきます。ご意見、ご感想等もぜひお寄せ下さい。
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