2012年9月2日

HELP JAPAN プロジェクト2の結果報告と南三陸町滞在記

暑い日本から戻ってきて一週間。お待たせしました。義援金活動の結果と南三陸町ボランティア活動のご報告です。(写真をクリックすると拡大表示できます)

第二回目の義援金活動HELP JAPAN プロジェクト2には、沢山の方にご協力ご支援いただき、本当にありがとうございました。ニュースがメディアから消えるとこんなにも反響が違うものかと、改めて痛感するほど今回は難しいスタートでしたが、それでも、皆さんのご協力のお陰で、417,000円の募金が集まりました。募金は8月に南三陸町の佐藤町長のもとへ直接届けさせていただきました。皆さん、本当にありがとうございました。

南三陸町には2泊滞在し、中一日はボランティア活動に参加してきました。町に入って真っ先に、防災庁舎跡を訪ねました。最後まで避難の呼びかけをした遠藤さんの話、屋上で津波にかぶりながら生還した町長の話、そして同時になくなった沢山の職員の方々の話。ニュースで見てきたそんな話を思い出しながら、無惨に残された骨組みだけの庁舎跡を下から見上げると、こんなに高いビルまで津波は飲み込んだのかと圧倒されます。本当に高いんです。13メートルくらいあるか、津波は更にそれ以上来たそうです。いったい誰が予想できたことでしょうか?
町の様子は、今では信号機や電柱が設置され、通れる道も増え、あの志津川病院は解体されてはいるものの、昨年9月に訪れた時(その時の様子はこちらをクリック)とあまり変わってないように見えました。破壊した車の山、無惨に壊れた防波堤の跡、基礎も見えなくなるほど夏草が生えた中心街の先の方には、昨年も見たがれきの山がまだ立ちそびえていて。地盤沈下した町の中心部は、今も満ち潮の度、海水に浸かったまま。
復興の兆しはどこに?皮肉なことに、私の両親の実家辺りや東京都心部、強いていうなら津波の被害に遭わなかった地域全てを見ると(もちろん福島の方々は違う局面に立たされていますが)、比べものにならない大きなギャップを感じてなりません。東京にいると、まるで何もなかったかのようにさえ感じてしまう。この南三陸町の姿を見ると胸が張り裂けそうです。言葉では表せないほど。やっぱり多くの方に実際自分の目で見てもらいたい。

それでも、やっぱり町は動いているんです。生きているんです。朝早くから働いている農家の人達。壊れた港で、一生懸命再建へと働いている漁師さん達。何もない敷地にぽつんと立つ仮のコンビニで働く高校生の女の子。新しい役場の隣にできた診療所に通うおばあさん。皆、一生懸命今日を生きています。少しずつ前進しています。それをしっかり見ていかなきゃと思いました。コンビニの女の子にお礼を言って、私達は宿に向かいました。


泊まった旅館、下道荘さんは、ブログのリンクで見つけました。津波はこの旅館もさらっていきました。美しい町を拠点とする観光業にとって、町の姿が変わってしまった現在においての再建を決意されるには、本当に迷いと、不安、苦労の積み重ねだったと思われます。それでも、今年2月、高台に旅館を再建、オープンされました。(下道荘さんの再建への道のりはこちら)彼らの強さには圧倒されます。美しい町の復興を信じ、町の人達の精神を信じ、貫いた素晴らしい結果です。旅館の正面には「絆 感謝」と熱い想いの込められたメッセージが掲げられていました。
下道荘さんから見えるきれいな海景色
下道荘さんでは、漁師の旦那さん、若旦那さんが朝早く獲ってきた新鮮な海の幸を一杯頂けます。私達も食べたことのないようなおいしい海の幸を頂きました。窓から海を見ながら、湯上がりの肌に当たる気持ちのいい潮風。ここに来て良かったと想う一時です。下道荘さんからは多くの事を学ばせてもらった気がします。

翌朝8時半。主人と義理息子と私で、ボランティア活動に参加しました。全国北から南からと本当にたくさんの方が集まり、中には一週間ほど来ている団体や、ボランティアリピーターの方も多くいました。全部でこの日は130人参加。私達の仕事は、町の中心から少し離れた地域での、がれきの分別でした。ニュース等では、がれき撤去はもう終了して、地元の産業のお手伝いが中心、などという話も聞きますが、ここ南三陸町はまだまだといった様子。ニュースでは届いていない現状を見たという感じです。
がれきは、コンクリートや瓦、アスファルト、金物、ガラス、陶器などと細かく分別されていき、まだ子供のおもちゃや靴などあらゆるものが出てきました。こうして分別して、最終的には処理をされるのでしょうが、がれき処理の問題は日本全国、まだ大きな課題が残されていますね。
38度の炎天下の作業は、やっぱり大変。 2リットルほどの水もあっという間になくなり、熱中症も考慮し、休憩も頻繁に配慮されました。ボランティア作業中は、現地の方々の気持ちを考慮し、撮影は禁止。3時の終了のサイン。ほっと気を安らげた瞬間、押し寄せる疲労感。目の前には、幾つもの新しいがれきの山ができていました。一日が終了。また新しい一日でがれきを撤去していく。少しずつ、復興へと近づいて。
旅館へ帰る途中、目に留まった幾つもピンクの旗。赤い旗は遺体が見つかった場所に立てられていたと、どこかで読んだことがあるのを思い出しました。あれから一年と半年が経とうとしています。このボランティア活動が亡くなった方々にとって、また南三陸町の未来にとって、意味のあるものになることを願ってなりません。

南三陸町に行く前に、陶芸フェスティバルでのワークショップで預かってきた写真とメッセージをまとめる作業をしました。200以上も集まった応援メッセージと手作りの鳥の写真は、日本語訳も合わせて、展示できるように模造紙に張り合わせました。未来を作る世代にと、主催者の意思も合わせ、地元の小学生達に届けようという目的で、作製しました。
学校は夏休み中だったので、教育委員長に直接お渡しし、町の小学校に巡回展示していただくようお願いしました。南三陸町には小学校が3つあります。私は、志津川小学校に足を運んだのですが、被災した戸倉小学校と現在合併していて、ちょうどその教頭先生にお会いする事が出来ました。メッセージの意図を説明すると、ご親切に小学生達の様子を少しお話ししていただけました。仮設に住む子供達も多く、中には遠くから5、60分かけてバス通いする子もいるそうです。小さいのに大変だなあと思いますが、やっぱりお友達と一緒に勉強できる方がいいんだろうなあ。教頭先生には、少し持参していた HELP JAPANの鳥をお渡しし、一年生達に配ってもらうようお願いしました。

南三陸町を後にする前夜、ぎりぎりで町の福興市かがり火祭りを見に行ってきました。福興市は新しくできたさんさん商店街の隣で設けられ、町の人達や来町者達でにぎわっていました。ヨーヨーすくいやかき氷に喜ぶ子供達の笑い声。祭り太鼓の演奏に歓声をあげる大人達。夜空に咲く花火達を見上げ、沢山の笑顔が浮かびます。自分たちの知っていた町の夏を、もう一度。

一人一人出来る事は小さくても、沢山集まれば大きな力につながります。

そんな私の想いが、あなたにも、そして少しでも多くの方々にも届くといいなあと願います。南三陸町のような町の復興支援は、いろんな形でできると思います。

実際に足を運んでみて下さい。
一度でもいいからボランティア活動に参加してみて下さい。
町の特産品を買ってみて下さい。(わかめ本当においしいです!)
町の事を知ってみて下さい。
みんなに広めて下さい。

考えれば、もっともっといろんな支援方法があると思いますので、みなさんもぜひ。

HELP JAPANの鳥希望の光キャンドルホルダー。在庫があるので、ある限り、またオンラインにて販売していきます。ご興味のある方はぜひ、ご注文下さい。注文方法はこちら、あるいは makikohastings@gmail.comまでEメールにてご連絡下さい。募金はまた南三陸町に届けさせていただきます。

最後まで読んでいただいてありがとうございました。xま

6 件のコメント:

  1. ふくちゃん2012/09/03 7:53

    たむちゃんお疲れ様でした。

    日本に住んでいながら被災地への具体的な支援ができていない自分を恥ずかしく思いました。
    自分に何ができるのか分からないけれど、被災地の事を忘れず心にとめて、できることを見つけていきたいと改めて思いました。

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    1. ふくちゃん、メッセージありがとう。恥ずかしく思うことなんてないんだよ。私だって最初何をして良いかわからんで手探りで始めたのだし。みんなが少しでも考えてみる方向に行く手助けができればいいです。ふくちゃんも鳥の協力ありがとうね。

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  2. まきさん、お疲れさまでした。
    まきさんご家族の温かさ、きっと町の皆さんの心に響いたことだと思います。大変な思いをしている子どもたちが、まきさんの鳥さんを見て喜んでいる姿が目に浮かぶようです。

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    1. そうですね、少しでも気持ちが届いてくれることを願います。

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  3. まきさん、お疲れ様でした。レポートもありがとうございます。
    まきさんの鳥ちゃんを見るたびに、福島の事を思っていました。
    微力ながらに、募金活動に参加できたことうれしく思います。
    まだまだ本当に車の残骸や、がれきが残っているのですね。

    阪神大震災を経験した時、私は高校生でしたが、
    メディアには上がってこないけれども、特に
    地元民にとってはこれからも長い長い道のり、高校を卒業する時でも
    友達にその影響で上がってきた色々な家庭問題等の勃発も垣間見ました。
    大阪でもこれでしたから、神戸近辺の人達はもっと大変だったんだろうなーと思うと、
    心痛かったのを覚えています。

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    1. ponzuさん、こんにちは。改めて、ご協力どうもありがとうございました。
      南三陸町には、阪神大震災の経験を生かしてお手伝いしている、神戸出身のボランティアの団体がいらっしゃいます。大阪の影響を聞くと、ほんとに広い地域で、いろんな問題を抱えているんだなあと思いますね。だからこそ、風化させないで地元の方々を見守っていきたいです。

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