暑い日本から戻ってきて一週間。お待たせしました。義援金活動の結果と南三陸町ボランティア活動のご報告です。(写真をクリックすると拡大表示できます)
第二回目の義援金活動HELP JAPAN プロジェクト2には、沢山の方にご協力ご支援いただき、本当にありがとうございました。ニュースがメディアから消えるとこんなにも反響が違うものかと、改めて痛感するほど今回は難しいスタートでしたが、それでも、皆さんのご協力のお陰で、417,000円の募金が集まりました。募金は8月に南三陸町の佐藤町長のもとへ直接届けさせていただきました。皆さん、本当にありがとうございました。
南三陸町には2泊滞在し、中一日はボランティア活動に参加してきました。町に入って真っ先に、防災庁舎跡を訪ねました。最後まで避難の呼びかけをした遠藤さんの話、屋上で津波にかぶりながら生還した町長の話、そして同時になくなった沢山の職員の方々の話。ニュースで見てきたそんな話を思い出しながら、無惨に残された骨組みだけの庁舎跡を下から見上げると、こんなに高いビルまで津波は飲み込んだのかと圧倒されます。本当に高いんです。13メートルくらいあるか、津波は更にそれ以上来たそうです。いったい誰が予想できたことでしょうか?
町の様子は、今では信号機や電柱が設置され、通れる道も増え、あの志津川病院は解体されてはいるものの、昨年9月に訪れた時(その時の様子はこちらをクリック)とあまり変わってないように見えました。破壊した車の山、無惨に壊れた防波堤の跡、基礎も見えなくなるほど夏草が生えた中心街の先の方には、昨年も見たがれきの山がまだ立ちそびえていて。地盤沈下した町の中心部は、今も満ち潮の度、海水に浸かったまま。
復興の兆しはどこに?皮肉なことに、私の両親の実家辺りや東京都心部、強いていうなら津波の被害に遭わなかった地域全てを見ると(もちろん福島の方々は違う局面に立たされていますが)、比べものにならない大きなギャップを感じてなりません。東京にいると、まるで何もなかったかのようにさえ感じてしまう。この南三陸町の姿を見ると胸が張り裂けそうです。言葉では表せないほど。やっぱり多くの方に実際自分の目で見てもらいたい。
それでも、やっぱり町は動いているんです。生きているんです。朝早くから働いている農家の人達。壊れた港で、一生懸命再建へと働いている漁師さん達。何もない敷地にぽつんと立つ仮のコンビニで働く高校生の女の子。新しい役場の隣にできた診療所に通うおばあさん。皆、一生懸命今日を生きています。少しずつ前進しています。それをしっかり見ていかなきゃと思いました。コンビニの女の子にお礼を言って、私達は宿に向かいました。
泊まった旅館、下道荘さんは、ブログのリンクで見つけました。津波はこの旅館もさらっていきました。美しい町を拠点とする観光業にとって、町の姿が変わってしまった現在においての再建を決意されるには、本当に迷いと、不安、苦労の積み重ねだったと思われます。それでも、今年2月、高台に旅館を再建、オープンされました。(下道荘さんの再建への道のりはこちら)彼らの強さには圧倒されます。美しい町の復興を信じ、町の人達の精神を信じ、貫いた素晴らしい結果です。旅館の正面には「絆 感謝」と熱い想いの込められたメッセージが掲げられていました。
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下道荘さんから見えるきれいな海景色 |
下道荘さんでは、漁師の旦那さん、若旦那さんが朝早く獲ってきた新鮮な海の幸を一杯頂けます。私達も食べたことのないようなおいしい海の幸を頂きました。窓から海を見ながら、湯上がりの肌に当たる気持ちのいい潮風。ここに来て良かったと想う一時です。下道荘さんからは多くの事を学ばせてもらった気がします。
翌朝8時半。主人と義理息子と私で、ボランティア活動に参加しました。全国北から南からと本当にたくさんの方が集まり、中には一週間ほど来ている団体や、ボランティアリピーターの方も多くいました。全部でこの日は130人参加。私達の仕事は、町の中心から少し離れた地域での、がれきの分別でした。ニュース等では、がれき撤去はもう終了して、地元の産業のお手伝いが中心、などという話も聞きますが、ここ南三陸町はまだまだといった様子。ニュースでは届いていない現状を見たという感じです。
がれきは、コンクリートや瓦、アスファルト、金物、ガラス、陶器などと細かく分別されていき、まだ子供のおもちゃや靴などあらゆるものが出てきました。こうして分別して、最終的には処理をされるのでしょうが、がれき処理の問題は日本全国、まだ大きな課題が残されていますね。
38度の炎天下の作業は、やっぱり大変。 2リットルほどの水もあっという間になくなり、熱中症も考慮し、休憩も頻繁に配慮されました。ボランティア作業中は、現地の方々の気持ちを考慮し、撮影は禁止。3時の終了のサイン。ほっと気を安らげた瞬間、押し寄せる疲労感。目の前には、幾つもの新しいがれきの山ができていました。一日が終了。また新しい一日でがれきを撤去していく。少しずつ、復興へと近づいて。
旅館へ帰る途中、目に留まった幾つもピンクの旗。赤い旗は遺体が見つかった場所に立てられていたと、どこかで読んだことがあるのを思い出しました。あれから一年と半年が経とうとしています。このボランティア活動が亡くなった方々にとって、また南三陸町の未来にとって、意味のあるものになることを願ってなりません。
南三陸町に行く前に、陶芸フェスティバルでのワークショップで預かってきた写真とメッセージをまとめる作業をしました。200以上も集まった応援メッセージと手作りの鳥の写真は、日本語訳も合わせて、展示できるように模造紙に張り合わせました。未来を作る世代にと、主催者の意思も合わせ、地元の小学生達に届けようという目的で、作製しました。
学校は夏休み中だったので、教育委員長に直接お渡しし、町の小学校に巡回展示していただくようお願いしました。南三陸町には小学校が3つあります。私は、志津川小学校に足を運んだのですが、被災した戸倉小学校と現在合併していて、ちょうどその教頭先生にお会いする事が出来ました。メッセージの意図を説明すると、ご親切に小学生達の様子を少しお話ししていただけました。仮設に住む子供達も多く、中には遠くから5、60分かけてバス通いする子もいるそうです。小さいのに大変だなあと思いますが、やっぱりお友達と一緒に勉強できる方がいいんだろうなあ。教頭先生には、少し持参していた HELP JAPANの鳥をお渡しし、一年生達に配ってもらうようお願いしました。
南三陸町を後にする前夜、ぎりぎりで町の福興市かがり火祭りを見に行ってきました。福興市は新しくできたさんさん商店街の隣で設けられ、町の人達や来町者達でにぎわっていました。ヨーヨーすくいやかき氷に喜ぶ子供達の笑い声。祭り太鼓の演奏に歓声をあげる大人達。夜空に咲く花火達を見上げ、沢山の笑顔が浮かびます。自分たちの知っていた町の夏を、もう一度。
一人一人出来る事は小さくても、沢山集まれば大きな力につながります。
そんな私の想いが、あなたにも、そして少しでも多くの方々にも届くといいなあと願います。南三陸町のような町の復興支援は、いろんな形でできると思います。
実際に足を運んでみて下さい。
一度でもいいからボランティア活動に参加してみて下さい。
町の特産品を買ってみて下さい。(わかめ本当においしいです!)
町の事を知ってみて下さい。
みんなに広めて下さい。
考えれば、もっともっといろんな支援方法があると思いますので、みなさんもぜひ。
HELP JAPANの鳥と希望の光キャンドルホルダー。在庫があるので、ある限り、またオンラインにて販売していきます。ご興味のある方はぜひ、ご注文下さい。注文方法はこちら、あるいは makikohastings@gmail.comまでEメールにてご連絡下さい。募金はまた南三陸町に届けさせていただきます。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。xま